地震による塩害

更新日:2016年4月1日

打樋(うてび)川堤防の決壊

住所:徳島市論田町本浦中
当時住所:現住所と同じ

 当時、私の家は、昔の古い家だったので、どっしりした重い戸が、なかなか思うように開かなかった。揺れは、かなりのものだった。外に出てからもしばらく揺れていた。「軒下におったらあかん」と言われて庭の真ん中に立っていた。昔、家の軒下に作っていた納屋代わりの「さしかけ庇」が、揺れた勢いで外れていたが、壁が落ちるほどではなかった。揺れの方向は、縦横両方に揺れていたように思うが、何しろ、急に大きい揺れを感じたので、「びっくりするような揺れ」として印象に残っている。
 津波については、津波が来る前に、土手にあがって津田方面を見ていた近所の人が、「あっちが光っとるけん、津波がくるかもしれんぞ」と言っていたのを覚えている。昔の人は、今のようにテレビなどの情報が得られなかったので、光の方向など自然現象の異変で、自分たちの身の危険を察知していたところがある。昔の人は、沖の方がざわざわして光っていると津波が来るということを生活の知恵として知っていた。また、昔はほとんどの家に井戸があって、その井戸を見に行くと、水が底まで引いていたことで、津波が来るのを知った。近くの川も昔は今より幅が狭かったので、向こう岸まで渡れるくらい水が引いていたし、船が勝手に走り出したりしていた。それからしばらくしているうちに、土手から見ていると、2mくらいの津波が押し寄せてきて打樋川の橋は壊れた。
 昔は、近所同士のつながりがあり、みんなで声をかけあって、大原町の千代ヶ丸山へ避難した。昔のこの辺りは、ほとんどの家が農家で、農耕用の牛を飼っており、その牛を避難させるのに苦労した。落ち着いてから、山を下りてきたが、くくりつけてあった船も水門にぶつかって壊れていた。田圃にカレイなどの海の魚が、たくさん打ち上げられていた。川の水も田圃の中も濁っていてどろどろしていた。

地盤沈下による塩害

住所:徳島市末広五丁目
当時住所:現住所と同じ

 この日、私は、表の八畳間で寝ていたが、あまりの揺れの大きさに驚いて、思わず外へ飛び出した。逃げるときに軽いけがをした。当時、この辺りは田畑が多く、畑の真ん中に立っていたが、それでもしばらく畑が揺れており、揺れの方向は、横揺れが大きかった。木造の家が左右にギシギシきしんでいたのを覚えている。周りを見ると、半壊、全壊した家もあった。私の家も屋根瓦が全部ずれていた。家の裏にあった池の周りが地盤沈下で、土地が割れ、池に向かって変形していた。一緒に住んでいた祖母と母と小さな兄妹たちは、今の東工業高校の辺りにあった測候所へ避難していた。私は当時十五歳くらいだったので、家の側に残って様子を見ていた。
 大きな揺れが収まってから、堤防の上にあがると、海水が沖から満ちたり引いたりするのが見えた。おそらく大小あわせると、津波は半日ぐらい続いていたのではないかと思う。また、夕食時分に余震を感じたのを覚えている。しかし、もっと大変だったのは、地震の後始末である。地震は収まったものの、水が出ない、道路は亀裂している、家の中はごちゃごちゃになっている、屋根はゆがんでいるといった手のつけられない状態が続いた。ただ、「となりぐみ」という近所同士のつながりがあったため、みんなで助け合って後片づけをすることができた。
 この地震で一番影響があったのは、地盤沈下による塩害であったと思う。台風の影響も受けることが多いこの地域では、地震から10年余りも塩害に悩まされ続け、徳島市に浚渫船をだしてもらったり、新町川の土砂による埋め立てを行うなど、ずいぶんと町の様子が変わってしまった。
 またこのような地震が起きるとすると、一番に入り口の戸をあけて逃げ道を確保すること、最小限の必需品がすぐ持ち出せる様にしておくことを常に心がけておくことが大事だと思う。

芋畑が塩害に

住所:徳島市八万町橋本
当時住所:徳島市大原町野上

当時は、木造二階建瓦ぶきの家に、姉夫婦、姉妹三人の六人で暮らしておりました。いつも、私たち姉妹は、二階の部屋でいっしょに寝ておりました。地震の揺れでびっくりして目覚めたのですが、姉は、布団を頭からかぶって横になったままでしたし、妹は、地震にも気付かず、熟睡しておりました。私だけがあわてて飛び起き、階段を下りようとしました。けれど、とにかくものすごい揺れで、思うように足を運ぶことができませんでした。それでも、どうにか一階に下りて、玄関の戸をあけようとしたのですが、戸がかたくてなかなか開けることができませんでした。力任せに戸をあけて、ようやく外に出ることができました。地震の揺れで、戸がひずんでしまっていたのでしょう。
 揺れが収まって、少ししてから家の中に戻りました。そして、朝食の準備に取り掛かり、ご飯を炊き始めてすぐに、外から「津波が来るゾー」という声が聞こえてきました。地震後、15分程たった頃でした。「これは、えらいことだ」と、すぐさまご飯の火を消して、家族全員で、家の前面にある山に避難しました。近所の人達も大勢避難してきておりました。1~2時間くらい、その山にいたと思います。
 後々、冷静に考えてみると、その山は「赤土山」で、崩れやすい山だったことに気がついて、山崩れが無くて良かったとつくづく感じました。また、家の近くの道路では、川の水が「バシャ、バシャ」と打ち上げられては用水路に流れていくという光景が、一日中続いておりました。特に、家には被害はありませんでした。けれど、当時の勝浦浜橋の周りに、うちの小作していた芋畑があって、地震後、そこらの土地の地盤が沈下したため潮の被害を受け、その後一切、作物ができない状況になってしまいました。
 今後、このときよりも大きな地震が来るという予測ですが、いきなり飛び出すと、何が落ちてくるかわからないので、様子を見て、状況判断することが大切だと思います。

井戸水に塩が含まれて

住所:徳島市川内町旭野
当時住所:徳島市川内町旭野

 戦災で焼け出され親戚を頼って川内に来て、川沿いのいわし小屋に住んでいるときに地震に遭いました。凄い揺れで目が覚めて急いで家族全員で外へ逃げました。そのときに小便をしようとしましたが、普通に立ってできなくて松の木にしがみ付いてしたのを覚えています。
 そのうちに揺れが収まったので家の中に入って横になっていましたが眠ることができませんでした。5時を過ぎていましたでしょうか、もう一度外に出ると沖が真っ赤になって海鳴りも聞こえたように思います。地震が揺って2時間くらい経ってから1mぐらいの津波が何回も来ましたが、台風時の波ほどでは無かったので恐くなかったです。いわし小屋は倒れることはなかったのですが、川沿いなので下別宮の親戚に2~3日避難をしました。
 現在の四国大学のグラウンドは我が家の田んぼでしたが、この地震で稲が作れない状態となりました。その他にも近くの畑から2mぐらい塩が吹いて芋が作れなくなったり地割れがあったりしました。井戸水も地震前まではとても美味しかったのが塩が含まれ飲めなくなって、飲み水はリヤカーで同じ川内町の家に貰いに行っていました。同じ川内町で井戸なのに場所によって飲めたり飲めなかったりしたのは不思議に思いました。あの時期は台風も多くて困ったことが多かったのですが、地震によって飲み水と食べ物が無くなったのにも困りました。
 教訓としては慌てないことです。今はあの頃と状況が違いますから急いで外へ飛び出すと何が落ちて来るかわかりませんので、安全確認をして逃げることだと思います。

米びつからネギ栽培へ

住所:徳島市北沖洲一丁目
当時住所:徳島市北沖洲町

 当時は、現在の市立高校の運動場に住んでおりました。戦時中に家を焼かれましたので木造二階建てがほぼできたときでした。あの日は二階で寝ておりましたところ、船に乗っているような大きな揺れが来たので目が覚め急いで下りて逃げようとしたのですが、揺れている最中は戸が開かないので収まるのを待って外へ逃げました。もうそのときには道路に亀裂が入り田畑には塩が吹き出ていました。井戸水にも塩が含まれていました。
 この液状化現象により、「米びつ」と言われていたこの地域が、それ以来米ができなくなって現在のネギ栽培と変わったのです。我が家では、建ててくれた大工さんの「わしが建てた家は地震が来ても倒れたりせん」と言っていた通り、まだ完全に建っていなかったのにもかかわらず、どこも痛んだ様子も無く無事でした。
 困ったことは井戸水に塩が混ざったので飲み水を金沢町まで貰いに行かなくてはならなかったことです。道路に亀裂の入った凸凹道なので、歩く度に水がこぼれて、帰って来たときには半分になっていました。

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