更新日:2016年4月1日
現住所:徳島市新浜本町一丁目
当時住所:徳島市津田西町一丁目
当時、木造平屋で瓦ぶきのがっちりした家で家族5人が住んでいた。地震の揺れは「ギシギシ」と横に30~40秒は揺れ、長いのでとても怖く、もう一度来ると思い、窓を開け、兄弟を起こし、防空壕へ10分ほど避難した。隣組の方々が「もういけるだろう(もう大丈夫だろう)」と、20~30分間後には家に入った。壁や瓦の被害もなく、停電やけが人はなかった。
隣の共同井戸の水が引いて、また増えたことで津波に気がつき、濁りもあった。近所の人が、バカ貝を中洲の沖に取りに行っていて津波にあい、突堤に打ち寄せられ命からがらであったことと、「沖が光った感じだ」と言っていた。裏の津田山の採石場は、少しは崩れたと思う。地盤沈下で塩害があり、米作がだめになった。
困ったことは、「一つではすまんぞ」という噂があったことである。良かったことは、上からおちてくるのが防げたことである。
心にしておくことは、まず(1)欲を出さず「物を家に取りに帰らない」こと(2)「稲むらの火」(昔の教科書にある)のように、稲穂に火をつけ、津波の情報をいち早く知らせたという教えのように、報道を素早くすること(3)戸を開けて逃げ口を確保し、高い所へ逃げることが大事。例えば、鉄筋建ての近くのビルに上がることを考えている(4)身の回り物をいれた黄色い袋をおいておく。位牌や水が大切。また、不安は、勝浦川の大土手が崩れたらということである。
住所:小松島市中田新開
当時住所:徳島市南沖洲二丁目
徳島大空襲で家を焼かれ、そぎぶきの窓もない未完成な家を借りて家族5人で住んでおりました。大きな揺れで目が覚めて寝間着のままコタツを抱えて外へ出ました。2~3分横揺れが続いたように思います。外に出て向かい側の長屋を見ましたら屋根が波打っているのが見えました。
南東方向、紀伊水道の辺りでしょうか、空に稲妻のような青白い光が、パッパと空全体に広がっていくのが見えました。これが発光現象というのでしょうか。朝早い時間でまだ暗い中での光にすごい恐怖を感じたのを記憶しています。
地震によっての被害はありませんでした。揺れている間はギシギシという音はすごかったのですが、津波の影響もなく井戸水にも変化はありませんでした。余震は1週間ぐらい続いたように思います。当時は全ての面で不自由でしたので地震によって特に困ったこともありませんでした。
教訓としては、地震はいつ起こるかわかりませんので処置無しというところでしょうか。家を耐震構造にしておくことぐらいしか思い当たりません。
住所:徳島市応神町古川字東
当時住所:現住所と同じ
地震が起きたのは地域の消防団員をしていた夫が、年末の取締りから帰って来て寝床に付き、私は生まれて間もない子のおしめを替えて寝ようとしたときでした。グラっと大きな揺れが来たので急いで寝間着の上に「おいごばんてん」で子供を抱えて戸口を開けに走りました。当時、祖父母がいましたので両親に「ふたりを連れて出てよ~」と言い、夫には「コタツを持って出てよ~」と言いながら外へ逃げました。外に出ると近所の人達は誰も出ていないので、前の家に向かって「川田のおばさ~ん、地震でよ~」と2回ほど呼びました。おばさんは寝ていた様子で「え~なんで~」と返事をするだけでした。ふっと空を見ましたら真っ白で不気味な感じがして、揺れていることよりもその方が恐ろしくなり、その上まだ家族の皆も出て来ていませんでしたから心細さも手伝って一度中に入りました。ちょうどその頃、両親が祖父母を連れて玄関まで来ていましたので、また一緒に外に出て揺れが収まるまでいました。夫がいないと思ったら彼は前には出て来ないで裏に逃げていたそうです。コタツを持って行ってくれたかと聞いたら「知らん」の返事でした。両親も祖父母も自分達のコタツを持っていたのに夫は自分独り逃げるのに精一杯だったようです。
今でもそのときのことが笑い話となっています。全然被害が無かったのにもかかわらず鮮明に覚えているのは、夫の行動と空の色の不気味さが忘れられないこととして記憶されているからだと思います。
後に津波で県南の方達が被害を受けたと聞いて、あの空の色は津波が来るときに起こる現象だったのかなと思いました。
住所:徳島市明神町2丁目
当時住所:徳島市かちどき橋3丁目
私の家は戦災を免れましたので昔のままの木造二階建てに住んでおりました。当時はまだ小学生でしたので地震は起こされて知りました。二階に寝ていましたから下りるのに苦労しました。ご近所に横井さんという大きなお家がありましたので、そこの庭へ家族四人と近所の皆さんとで逃げて松の木の傍でおりました。横揺れがかなり長かったように思います。揺れが収まってから一旦家の中に入りました。横井さんという方は城北高校の先生をしていらして「地震が来た後に、空に月のような丸いものが出たら津波が来る」と教えて下さっていましたから朝食の時間頃だと記憶していますが、家族で「見に行こうか」と言いながら県庁まで見に行きました。
あの頃の県庁はかちどき橋より低かったので正門近くまで水がジワ~と来ていました。そのときに東の空に月のようなボヤ~としたものが見えました。我が家の辺りは津波による被害はありませんでしたが、後日、県南の方で水の被害があったと聞いて、やっぱりあの月みたいなのは、その徴候だったのだと改めて思いました。
体験した者から地震時に注意した方が良いと思うのは、揺れたらまず頭を守るということです。机の下に入るとか外へ逃げるときは座布団を被って行くとか、家族間でも何処に逃げるかといったような相談も必要だと思います。私たち家族もあのときに「津波が来たら金毘羅さんに逃げよう」「今度揺れたら近所の原田様の竹やぶに逃げよう」と話し合っていました。現在でも富田小学校に逃げようと家族間で話しております。
住所:徳島市住吉二丁目
当時住所:徳島市福島二丁目
この地震は戦地から帰って来てすぐだったと思います。朝、揺れで目が覚めて壁を見ますと大きく揺れておりました。多分壁土の中の組んである竹が揺れていたのだと思います。急いで裏の畑に家族で逃げました。揺れが収まって家の中に入ると壁に亀裂が入っていましたが、壁土は落ちていませんでした。
津波は井戸でわかりました。さぁ~と引いて、そのうちいっぱいになりました。気になったので近くの川へ見に行ったら、見る見るうちに引いて、また溢れるばかりにいっぱいになりました。しかし溢れはしませんでしたので、揺れが収まってからはいつも通りの生活をしました。
また大きな地震が来るかも知れないと言われています。家族で避難場所の確認や非常袋の用意をしておいた方が良いと思います。我が家でも阪神大震災のときには用意したのですが、日が経つにつれて「喉元過ぎれば」で、ずんずん奥に追いやって、今では何処に置いたか忘れてしまっています。これを機会に捜して、わかる所に置いておこうと思っております。
住所:徳島市佐古六番町
当時住所:徳島市上佐古12丁目
私は当時、現在と同じ場所の木造一階のスレートぶきの家に両親と3人で住んでいた。地震が起こって外に避難してみると、向かいの家(現在も存在する)が「みしみし」と音をたてながら前後に揺れていた。その家は瓦ぶきの家だったが、幸い瓦が落ちるというようなことはなかった。当時この周辺は戦争で焼け、その唯一残った向かいの家を除いては、地域一帯が焼け野原だったので、地震の揺れ自体はあまり感じず、家内の実家である石井町では家が一軒つぶれたという話を聞いたが、この辺りでは人や家の被害も無かった。しかし、地震が収まってからしばらく経って近所の人が「川の水がひいたぞ」という声を聞き、近くの田宮川に行って川を見ると、川の水が全部ひいてしまい、川底が見えていた。すぐ家に帰ってしまったので、その後どうなったのかはわからないが、今思えばあれは津波の前兆だったと思う。しかし津波によって被害がでたという話は聞かなかったのでたいしたことはなかったのだろう。
この地震で困ったことといえば、水や電気には異常が無かったので生活に支障は無かったが、当時の情報機能が不十分だったため正確な情報を得るのに困った。
私は次に来るといわれている南海地震に向けて、住民の防災意識を高めていく必要があると思う。私たち町内会長が会長同士で自主防災を組織しても住民はその場限りで長続きしない。町内会長だけでなく、住民のひとりひとりが高い防災意識を持っていかないと、地震のような大きな自然災害は防げないと思う。
住所:徳島市川内町榎瀬
当時住所:徳島市中央通2丁目
この地震は一番下の子が生まれて10日経った朝でした。ガタガタと来たので飛び起きて外へ飛び出しました。周りは焼け野原で家が無かったものですから、生まれて間もない子を脇に抱えて隣のシュロの木に掴まりました。長女が私にしがみ付いてきたので、シュロの枝を束ねて「これに掴まりなさい」と言ったのですが、あまりの揺れの大きさに恐がって私から離れようとしませんでした。脇には赤ちゃんを抱え腰には長女で、私の身体は不安定になり何度もシュロの木から離れそうになりました。
そのとき、真っ暗な南東の空に、浅川の方向だと思いますが、稲光がピカピカと光りました。「あら、地震って揺れながら稲光がするんだわ」と思いながら見ていました。夫も傍に居たのですが長男が出て来ないので心配をして、何度も転びながら家の中に行きました。長男は恐さのあまり出口がわからず布団を被ってすくんでいたらしいです。私達は揺れが収まり明るくなってから家の中に入りました。家族が無事に揃った安堵感で周りを見る余裕が無く、山崩れ、電気、水等の記憶がありません。
津波については、近所の人が「これは津波が来るぞ、井戸の水が無いから。富田橋まで見に行かないかん(行かないといけない)、水がひいとんに違いない(引いているのに違いない)」と言ったのを子供が聞きつけて「あんたは行ったらいかんよ」と言うのも聞かず行ってしまいました。結局は被害が無かったのですが、津波より子供の行動が心配でしたのでよく覚えています。
体験者から言いますと、当時と今とでは立地条件が違いますので、くれぐれも頭上に気を付けながら逃げた方が良いと思います。
危機管理課
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