更新日:2016年4月1日
津波を経験した亀
住所:徳島市南田宮二丁目
当時住所:現住所と同じ
私の家は川沿いで木材店を営み、当時は、周りには5、6軒しか家が無かった。地震の揺れそのものは、阪神淡路大震災ほどではなく、外へは逃げずに家の中にいた。当時、家の前の川で筏にしてあった木材が、濁流のために川一面を覆い、海の方へ流れてはすぐに戻されてきて、大分長い時間行ったり来たりを繰り返した。流されていくのを引きとめようと、夫が川に浮いている木材に飛び移ったが、流れがきつく、見ていた人も「危ないけんのったらいかん」といって呼び戻し、その後も、たくさん木材が流されて損害を受けた。あんな恐ろしいことは生まれて初めてだった。
地震の後は、井戸水が出なくなり、隣で水をもらった。隣の家も井戸水だったが、水が出ていた。隣の方が井戸を深く掘っていたからではないかと思う。また、濁流によって亀が何匹か流されてきて、それからずっと飼っているが、当時のものが今でも3匹生きている。この亀たちが津波の怖さを一番良く知っているのかも知れない。
住所:徳島市下助任町3丁目
当時住所:徳島市上助任蛭子
私は当時、上助任蛭子にあった吉野住宅という木造の四軒長屋に住んでいた。地震のときは寝ていたが、大きな揺れで目が覚めた。しばらく家にじっとしていたが、あまりの揺れの大きさに怖くなって、戸を開けて裸足で飛び出した。火の元が気になったので、当時の櫓こたつを抱えて外に飛び出していた。裸足で外に飛び出したので、足の裏に少し怪我をした。外では、電線が触れあって花火のような火花を散らしていた。家の裏に、いも畑があり、その中で座っていたが、しばらく身体の揺れが止まらなかった。
そんなとき、私の家から100~150m程離れた川向こうにある川沿いの土手の真下にあった古い家の辺りから火が燃えていた。家が倒れて火事になっている様子だった。その方向から「助けてー助けてー」という女性の声が聞こえてきた。その後、津波がやってきた。津波はいったん、新町川の底が見えるほど水が引いたかと思うと、吉野川の方から「ゴーッ」というものすごい音と同時に、水が流れ込んできた。河川敷は水浸しで、水門からは噴水のように水が噴き出していた。水音はその日しばらく続いていた。私の家は新築の長屋だったので、倒壊の心配はなかったが、壁に少しひびが入っており、家の中にあったラジオなどが端から端まで移動している程、激しい揺れだった。地震の後、井戸の水が土濁りして使えなかった。近所の家の水道に水をもらいに行ったのを覚えている。今でも、地震の揺れの大きさと、津波の音と、火事で助けを求める女性の声を忘れることはできない。
住所:徳島市応神町中原
当時住所:徳島市富田浜2丁目
あの頃の家は壁土も無い板張りのトタン屋根、窓は障子で土台は石ころの上に丸太を乗せたというバラックでしたので、地震時はド~ンと家ごと持ち上がった感じの揺れで起こされました。最初は上下の揺れでそのうち大きな横揺れになったように思います。父がタンスを両手で押さえて「早く逃げろ」と言いましたので家族八人が外へ飛び出し父も後から出て来ました。倒れた家はありませんでしたが、土台から外れた家は我が家を含めて近所にもたくさんありました。火事、ケガ人等はありませんでした。
津波については、家が新町川の傍にありましたのでよく覚えています。地震の揺れが収まってから家に入ったときに父が「揺り返しがあるかもしれんから服を着たまま寝ろ」と言ったので横になりました。それから2~3分経ったでしょうか、ゴォ~という音が聞こえたかと思うと、当時近くに海産物組合があってそこの宿直の人が「津波じゃぁ~」と叫んだので、皆で家を飛び出して川を見たら水が全部引いていました。そのうち薄闇の中、県庁の方から白波立てて材木と共に水が流れて来るのが見えました。宿直の人が「2回目の津波が大きいから逃げろ」と言ったので、私と姉二人で眉山に向かって逃げて瑞巌寺に30分ほど居ました。しかし一向に水が来ている気配が無いので引き返してみたら2回目もたいしたことも無く、あと何回も何回も水は来ていましたが溢れることは無かったです。瑞巌寺には200人ぐらいの人が逃げて来ていましたが、殆どの人が裸足か足袋姿でした。地震で困ったことはこれといってありません。停電はしょっちゅうでしたし、水道が止まったわけでもなく、現在なら大変だろうと思いますが、あの頃は全てに不自由でしたから生活そのものには変わりなかったです。
今後活かす教訓としては、津波情報を早く、電気が切れたらTVは当てにならないから広報活動をしっかりして欲しいし、避難場所の確保をして欲しいと思います。
住所:徳島市南昭和町3丁目
当時住所:現住所と同じ
ガタガタと来たので、逃げようと戸を開けに行きましたら、すぐには開きませんでした。もう一度揺れたその拍子に戸が開きましたので、家族で外へ逃げました。揺れがあまりにも大きいので座っていたのですが、お尻が横に揺れてまるで自動車にでも乗っているような感じでした。暫らくすると町内の人達が「津波が来るから逃げるぞ~」と言いながら荷車に荷物を積んで金毘羅さんに向かって逃げていました。義父が「あねはんよ、うちも逃げるかい」と言ったのですが、私と義父は残って様子を見ることにして、姉に子供5人を託して逃げてもらいました。
当時、我が家は市の方から「ゆる番」といって田畑に水を流し入れる係りを受けていましたので、揺ってから時間が大分経っていたと思いますが義父と一緒に田畑を見に行きました。そこは入り江になっているのですが、立って見ていると向こうの方から白い雲のようなものが三段になってこちらに来ているようでしたので「あれ、何かな」と思った矢先ザブ~ンと水が頭に降って来たのです。びっくりして急いで水を止めている「ゆる」のはしごに掴まりました。水の勢いは凄いです。もう少しで流されるところでした。さぁ~と来てさぁ~とひく、この引くときの力が凄いのです。3回ほど来たと思います。周りの土手が高いので幸いにも家の中までは水は来ませんでしたが、家は棚の物が落ちてグジャグジャになっていましたし、井戸には水が全然ありませんでした。何日か経って大阪へ行ったときに、海に色々な物とゴミが浮かんでいるのを見て津波の影響は凄いと改めて思いました。
昔から地割れ対策には竹やぶに逃げ込むのが一番と言われていますので、屋敷内に竹やぶを作っています。地震時は、お位牌を持って、出口の確保をして、様子を見てから竹やぶに逃げることにしています。
住所:徳島市中前川町5丁目
当時住所:徳島市南前川町5丁目
私は、木造平屋のトタン屋根でできた一般的に言うバラックに家族五人で暮らしていた。住んでいた場所は現在とは違い南前川町だった。朝早くまだ寝ていると大きな地震が急に起こった。飛び起きた私は、家族全員で庭へと避難した。外へ出ると地響きのようなすごく大きな音が聞こえてきた。しかし当時十六才だった私には「よぉ揺れるなぁ」と思った程度で、恐怖心というよりもむしろ好奇心の方が大きかったように思う。そして幸いにも、この地震によって建物や人的な被害は無く、余震もそう長くは続かなかった。
このように当時、終戦後間もない時代だったため、普段の生活自体が困っていたので、地震後特に困ったということは無かった。しかし地震後に襲ってきた津波には驚かされた。地震がおさまってから何分たったかわからないが、近くの新町川の方角から「ざぁー」という音が聞こえてきた。気になって見に行くと材木屋が川に浮かべている材木が川上の方へと流されていた。私が見に行ったときは押し波が来ており、川の水位が約1m程上がった。逆に引き波のときには川底が見えるぐらいまで水が引いてしまった。そして2回の水位の増減が見られた後、川は元の落ち着きを取り戻した。
私は南海地震の体験者として特に教訓といったものは無いが、昔、炭坑の仕事をして学んだことは、「家の中で地震が起こったら、柱のすぐ側で待機しろ。」と教えられてきた。そして次の南海地震に向けて、地震が起こったときの詳しい情報をいち早く伝えられるように連絡系統の整備が必要になってくると思う。
住所:徳島市南末広町4丁目
当時住所:徳島市北福島一丁目
当時、木造二階建ての三軒長屋に住んでいました。大きな揺れで目が覚めて外へ飛び出しました。そこから家を見ましたら三軒ともがユラ~リユラ~リと揺れて倒れかかったのですが、揺れが止まったのと同時に元に戻り倒れませんでした。誰かはわかりませんが「津波が来るから城山に逃げろ」と叫んだので、下の子供を背負い、上の子供の手をひいて福島橋を歩いて行きました。下からゴンゴンと材木のぶつかる音がして、まだ暗かったものですから凄く恐かったです。今でもはっきりとその音が耳に残っています。明るくなってから家に帰りましたが幸いにも被害は全然ありませんでした。
地震時に大事なことは、まず出口の確保をすることだと子供の頃から言われておりましたが、そのとおりだと思います。私は今でも微震であっても必ず戸を開けています。
現住所:徳島市南福島二丁目
当時住所:徳島市南福島二丁目
当時、木造二階建てスレート瓦ぶきの家で寝ていたが、揺れが「ガタガタ、ゆらゆら」と長かった。外に出ても揺れていたが余震についてはわからない。そして家族で近くの朝日橋の少し高くなっている空き地へ出た。近所の人が寄っていてワーワー言っていた。そのうち誰かが、「津波がくるぞー、中央公園か眉山へ逃げよ」と言っていたが遠すぎる。後で思ったことだが、昔近くの東工業高校の所に、人工の50m高程の天文山があり、測候所があったが、それが避難地として役に立ったのではないかと思う。20~30分間くらいのうちに津波がやってきて、1時間くらいは引いたり、満ったりしていた。新町川に沈んでいた船で、戦争の爆撃で甲板などが燃えて沈んでいる廃船(川さらえのための船)が、沖に引かれてから、またもどってきて、元来、水は流れていない朝日橋の支流の入り江に入った。4m×20mもの大きな船であり、水でガサガサ押し上げガタガタと何遍も、引いたり押したりして朝日橋で止まった。明るくなって家に食事に帰った。家の被害は、壁が少々は落ちただろうが、井戸や電気も問題なく、けが人もなく、近所にも大きな被害はなかった。
助かったことは、朝が早かったので仕事がまだ始まっていなく、火を使っていなかったことである。この地域は木工所が多く、冬はよく火を使う。ドラム缶や一斗缶で5人くらいのグループで火に暖まったり、接着剤(にかわ)を25センチ程の缶で炊いたり、ゆがんだ材木を真っ直ぐにする鉄鋼プレスの機械もあるが、地震時には作動していなかった。また、消防団などの活動は特になかったようである。
教訓としては、自分で防衛することや、国や市の力で、防災都市作りを願いたい。公園や小学校のグラウンドなどで、地域の人の、二分の一の人が避難できる場所や、何日分かの水の確保ができるとよい。地震対策としては、屋敷の地盤を二倍は強くして、屋根は、建物とは逆に軽くしている。
住所:徳島市仲之町4丁目
当時住所:徳島市住吉東
私が昭和南海地震を体験した当時は十五歳だった。当時の住まいは住吉東にあり、木造一階建ての農家の家だった。家族は五~六人で暮らしており、地震が起きたときは家で寝ていた。ふと気が付くとガタガタと揺れていて、慌てて外に飛び出したのを覚えている。揺れは30~40秒位で1分も続かなかったように思う。家族や近所で、けが人や死人が出たという話も無く、建物への被害もこれといってなかった。また、山が崩れたり火災が起きたりといったことは無かったが、川に津波が来る様子は目撃した。ちょうど家の前に川があったので、慌てて外に飛び出した後にその様子を見ると、水がどんどん引いて川の底が見えるくらいになっていた。その後、ヘビが這うようにして川の水が押し寄せてきた。その波の高さは地面すれすれまできていて、1~2m位はあったように思う。この津波が来るまでは30分位はあったと思う。大きな波の来た回数は3回位で1回目の波が一番大きくて、その後は小さい波ばかりしか来なかった。その後、夕方位で波はほとんど無くなった。最終的に川から水が溢れることはなかったが、川に浮かべてあった材木のいかだが流されるといった被害があった。この流された材木は、津田の沖まで流されたため、船で回収に行く人もいた。この地震で困ったのは家の扉が半分までしか開かなくなってしまったことぐらいで、その他特に困ったという記憶は無い。また、当時防災のための警防団や消防団等はなかった。地震を経験しての教訓は、「まず道路へ逃げて、それから近くの避難所へ逃げる」それと同時に「火の始末をする」ことが大切ということである。
現住所:徳島市津田本町五丁目
当時住所:現住所と同じ
木造瓦ぶき平屋の家で、家族五人が、勝浦川河口の与茂田港のすぐ横に住んでいた。現在ある南北の道は、当時は堤防であって、家は、さらに私設の堤防を港との間に造ってあった。地震の揺れで、戸は開けにくかったが外へ出た。妻は、子どもが生まれる予定日の10日前のことで、腹が大きいときであったが、窓から飛び降りて外に出た。余震もあり、家が「バリバリ」といっていた。外に出ると、干しえび等の加工用でレンガ造りの煙突が倒れ、使用人が住んでいたところ等、屋根がまくれて全壊したようなものとなり、とにかく被害がすごかった。天日乾燥をさせていた方の、堤防をはさみ西にあった煙突も倒れた。
妻の千恵子は、津波がくるので港から離れた方に先に避難した。津波について、南の堤防の高い所に上がり、東の沖を見ていると、空が、朝日より真っ赤になっていた。また海鳴りが「ゴーッ」と聞こえていた。
2時間後の夜明けごろ、第一回目の津波が、与茂田港の中を越して、家の庭にもきた。「バシャ、バシャ」と海水が持ちあがり、ザーときて、ザーと引いた。私設の堤防が壊れ、干しえびの加工場がビショビショに浸かった。そして、「港の水が一滴も無くなり」引いていった。海鳴りが「ゴー・・・」といい、怖かったところに、二回目の津波が「ザアー・・・」ときた。一回目よりすごくて水位も高く、70センチくらいあり、再度家が浸かり、魚が泳いでいた。三回目くらいから津波の高さが低くなり、五回くらいはきた。近所の被害はなく、私の所だけが、まさか、津波で浸かるとは思わなかった。見物人が多かったが、後片づけを、使用人や親戚、近所の人が大勢でしてくれ、炊き出しや差し入れもあり助かった。その日のうちに寝るところは確保できた。当時、身おもの妻は、片づけの世話でくたくたになり、とにかく「地震は怖かった」につきる。地盤沈下はあったようだ。
住所:徳島市北田宮四丁目
当時住所:不動東町4丁目
私が昭和南海地震を体験した当時は二十四歳だった。当時の住まいは不動東町4丁目にあり、木造平屋建ての家で暮らしていた。自宅で寝ていたところに地震が起こり、急いで玄関から外に出ようとした。すると、玄関の敷居の上に壁が落ちてきていて戸が開かなかった。そこで、外には出ずに家の中でタンスのそばでじっとしていた。そのときの揺れはとても大きく、30~40秒ぐらいは続いたと思う。そのときは家族七人で暮らしていたが、全員外には出ずに家の中でじっとしていた。そして、揺れがおさまってから家の外に出たが、余震が来るといけないのでそのまま一時間ぐらい家の庭で避難していた。この地震で近所の納屋が倒れてしまったので、後日手伝いに行ったのを覚えている。
その他に新町川に津波がやってきたのも覚えている。当時私は新町川の河口のすぐ近くにある材木会社に勤めていて、地震が起こった日の朝8時頃に会社に行ってみるともう既に津波がきていた。まず最初に川の底が見えるぐらいまで水が引いて、その後に1.5~2mぐらいの波がやってきた。すると、川につないであった会社のイカダがすべて流されてしまった。いったん潮が引いてその後に津波がやって来るというのを何回も繰り返していて、それは昼頃まで続いた。この地震で困ったことというのは玄関の戸が開かなくて外に出られなかったことである。当時私は消防団に入っていたが、活動というのはしなかった。
地震を経験しての教訓としては、(1)ブロック塀に近づかない(2)衣類をすぐに持ち出せるように用意しておく(3)すぐに外に出るようにする(4)窓や戸を開けて逃げ道を確保するといったことである。
住所:徳島市南昭和町7丁目
当時住所:現住所と同じ
地震は、私が小学校4年生のときでした。母親に起こされて目が覚めたとき、木造の家がギチギチと音をたてて揺れていました。父が窓を開けてくれていたのでそこから畑に逃げました。緊張のあまりトイレに行きたくなって、トイレへ行ったのですが、揺れる度に出たり止まったりで、すんなりできなかったことを覚えています。揺れはかなり長かったように思います。揺れが収まって家の中に入ると、壁に亀裂が入り、壁土が落ちていましたし、揺れていないのにまだギチギチという音がしていて恐ろしかったです。今思えば素人判断ですが揺れによって狂った木が元に戻ろうとした音ではなかろうかと思います。
津波については、地震の揺れ以上に鮮明に記憶に残っています。というのも、揺れが収まったときに畑のすぐ上が土手になっていましたので川を見ましたら、ス~っとひいて、それと同時に沖からゴ~っという音が聞こえてきたのです。びっくりして、これは家を飲み込むほどの津波が来るかもしれないと子供心に思ったのですが、「大山鳴動して鼠一匹」の例え通り実際にきてみると1mぐらいの小さな波でした。しかしここは新町川と園瀬川を結ぶ運河になっていますので、川の両方から波が押し寄せてきてぶつかりパチャパチャと、もの凄い大きな音がして波が踊っているようでした。それを見て津波のエネルギーは凄いものだと思いました。近所に石炭運搬船を持っている人がいて、水が引いたのと沖からの大きな音を聞いてパニック状態になっていましたが、幸いにも船は流されませんでした。余震は最初の揺れほどではありませんでしたが、少しはあったと思います。昭和町の本道路や、あっちこっちに地割れが見え15cmぐらいの段差があったところもありました。
現在も56年前から比べると、昔の名残の水門が1mぐらい沈んでいるように思います。これは地盤沈下だけではなく温暖化も手伝っていると思うのですが、何十年後に来るかもしれないと言われている地震に対して、津波対策を考慮しておかなければならないと思います。
住所:徳島市北田宮一丁目
当時住所:徳島市川内町小松
当時私は川内町小松の方に住んでいたが、南海地震の影響で現在の住所に移らざるをえなかった。地震時、私の家には私を含め妻、母、子供五人の計八人が寝ている状態だった。地震の揺れはかなりのものだったので、みな急いで外に飛び出した。そして、津波が来るかもしれないと思い、近くの神社に避難したが、すぐに自宅に戻った。当時、私の家は川の堤防の上にあり、家の中から川に飛び込めるくらいの距離だったので、地震後の川の動きをよく見ることができた。津波は地震後かなりの時間が経過してからやってきた。津波というよりは潮の満ち引きといった感じのものであった。川の水が押し寄せ、引いたときは川の底が見えるくらいになっていた。津波は第2波目以降かなり減衰していき、その間隔は恐らく30分程度だった。津波は昼過ぎまで繰り返し続いた。また、この津波は堤防を越えたので、そのときに船が堤防に打ち上げられるという被害もあった。興味本位で津波を見物しに来る人が多かったのも覚えている。
地震による被害としては、堤防が沈下したことである。これにより台風時に潮が民家の方に入っていく恐れがあったため、堤防の嵩上げ工事が行われたが、私の家がその堤防の上に立っていたことから完全には潮を防ぐことができず、やむなく現在のところに越してきた。これは直接的な地震の被害ではないが、間接的に被害を受けたといえる。その後、昭和30年に川内は、徳島市と合併され、急速に復旧された。
次の地震に対しては、(1)消防車などの救援活動がスムーズに行えるようにしておく(2)多くの人がパニックになると予想されるので、逃げる際には車を使用せず徒歩で避難することを徹底しておく(3)個人でできることは自分でできるようにしておくことが重要であると思われる。
住所:徳島市住吉五丁目
当時住所:現住所と同じ
あの頃の家は、昭和7年に建てた木造中二階の瓦ぶきで、そこに、両親と私の三人で暮らしておりました。地震が揺ったとき、私は眠っていましたが、揺れで目覚め飛び起きました。そして、家の中心の大きな柱の下に家族でじっとしていました。避難したくても揺れが激しく、歩いていくとひっくり返りそうだったので、動くことができませんでした。また、揺れる時間もとても長く、私の感覚では、10~15分は揺れ続いたように思います。揺れ終わってから、裏の出口から外に出ましたが、すぐに家に戻りました。家では、地震で引き戸の「おとし」が全て折れてしまい、戸が30cm程あいておりました。また、壁には亀裂が入っていました。瓦が落ちたり、家の家具が倒れたりということはありませんでした。家の周囲には、田畑が多く、溜め池も多くあり、その底が八割れになっていました。この辺りの土地の下層は、砂質で、地割れが多く1m近く地盤が沈下してしまいました。そのため、福島川の水が橋すれすれまできはじめたので、1mの高さの壁を造って水が入って来ないように整備されました。
この地震以降、農地は「ハルタ」という水気の多い土地で湿田となり、稲しか作れず、畑として作物を作ることはできなくなりました。大人達が、「畑は作れん位じゅるいんよなー(畑が作れないほど土地が水分を含んで柔らかくなっている)」と言っていたのを覚えています。津波は、大人の話によると地震が揺って20~30分後に土手の上から「津波が来るぞー」という声が聞こえ、「ダッダッダッダッダー」という轟音と共に波が押し寄せ、河川敷の田んぼに水が「バッサー」ときて、次に水が引いてしまうと、魚が「ピチッピチッ」とはねて田んぼに残っていて取り放題だったと聞きました。また、近所の漁師さんの話では、「早朝から河口で漁をしていたが、山の方では稲妻のような光が横に交差して、不気味に明るく見えた。また、水底が網目の様に光って見えて、普段とは違うと感じ、漁を止めてすぐに引きあげた」ということでした。その後すぐに津波が押し寄せたということで、「あのときすぐに直感して、引きあげていて本当に良かった」とおっしゃっていました。
現在、建て替えた家は、見かけは木造ですが、中身は鉄骨で、家族で練りに練った末に造った家なので、耐震は万全だと思います。また、就寝部屋には家具は置いておりませんので、地震が揺ったときでも、物の下敷きになることは無いと思います。現在、家族三世代同居ですが、耐震を重視した高い意識で暮らしております。
住所:徳島市安宅三丁目
当時住所:徳島市福島新橋2丁目
当時私は、福島新橋2丁目、現在の新南福島で、家族五人、木造二階建ての家に住んでいた。地震があった日は、二階で寝ていたが、揺れで目が覚め驚いて飛び起きた。下から父が、「雨戸を開けろー」「階段を使って、下りてくるなー」と注意を促して叫んできた。あの頃の階段は、引っ掛け式の階段で、万が一それが地震ではずれでもしたら大変なことになるからだった。父の声に従い、私は、二階の雨戸を開けて物干しに出た。そうすると、父は、家の外に出ていて、下から物干し竿を私の所へと差し出してきた。父の支える物干し竿を滑るように下に降りていった。そのとき目に入ってきたのは、電信柱がゆっさゆっさと揺れ、電線がショートして火花が散っている光景だった。確かにものすごい揺れで、揺れた時間もとても長く感じられた。余震も数回あった。
地震後30分位たった頃、遠くから「ゴーッ」という不気味な海鳴りがしたときに、父が「津波が来るぞ」と言った。そのとき初めて、津波の前には低い海鳴りが聞こえるということを知った。2回目の津波のとき、新町川のあたりを見に行くと、福島新橋の橋脚に数え切れないほどの木材が、もろにぶつかってはすごい音を立てて、引っかかっていた。その後、福島新橋は崩壊してしまった。近所では戦災で焼かれて、二階建ての家が無かったので、私の家の物干しに、津波から逃れるために、知り合いなどが、15人から20人ほど避難してきていた。「ゴーッ」という海鳴りは、3回ほど聞き、津波の高さは2mくらいではなかったかと記憶している。地震が収まった頃、消防団か、交番の巡査であったか定かではないが、この辺を見回っていた記憶がある。ここらでは、この津波で直接の被害や人災は無かったものの、福島新橋の崩壊で通行不能になってしまったことが、まず困ってしまった。
今後、地震が来たときに活かすべき教訓は、1窓などを開けて、脱出口を確保しておくこと、22階以上には、ロープなどを常時備えておくこと、3とにかく慌ててしまうのでできる限り冷静に行動すること、などがあると思う。
住所:徳島市城南町二丁目
当時住所:徳島市八万町宮ノ谷
当時は、市内八万町宮ノ谷で木造中二階の家に住んでおりました。地震がおきたときは夜明け前なので寝ていたのですが、揺れを感じて目が覚めました。横揺れが激しく、立っていることさえできない程でした。家が揺れる音にも恐怖を感じて、這いながらもどうにかコの字型の家の中庭に、着の身着のまま裸足で逃げ出しました。主人は、火事を起こしてはいけないと、急いでこたつを抱きかかえて庭に逃げ出しました。揺れた時間は、どのくらいかわかりませんが、とても長いように感じられました。庭に出てからも家が揺れていて、家の棟が「ぎちっ、ぎちっ」と軋んだ音を立て、とても恐ろしい光景でした。その「ぎちっ、ぎちっ」と木と木がこすれあう音は、今でも鮮明に脳裏によみがえり、その恐怖感は、いまだに薄れておりません。今、思い返すと中庭に逃げ出すのでは無く、道に出た方が、ましだったのではないかと思います。そのときは、無我夢中で、とにかく逃げなければという意識でした。余震は、2~3回程あったのを記憶しております。
また、その日は戦死した知り合いの遺骨を迎えに、市内の福島まで行く予定でした。かろうじてバスは通常通り動いておりましたので、午前10時過ぎごろ福島に向かいました。行く途中、両国橋を歩いて渡らなければならなかったのですが、川を見下ろすとものすごく濁り、木材が海側の方から流れてきたのでしょうか、濁流に乗って川を逆流しながらどんどんと流れてきていて、足がすくんでしまいました。新町川の上の方まで水が濁っておりました。その光景を見たとき、ひどく恐ろしくなり、このままこの橋を渡ると川に飲み込まれてしまうのではないかと恐怖観念にとらわれました。けれども、遺骨をとりに行くため気を取り直して、恐る、恐る歩いて橋を渡りました。そして、バスに乗って福島まで行き、遺骨を無事受け取ることができました。家は、山際で地盤が強かったのでしょうか、幸い被害はありませんでした。もしかしたら、町の方より揺れが小さかったのではないかと推測しております。
住所:徳島市川内町大松
当時住所:徳島市新佐古5丁目
焼け跡の中にバラックではあるが消防の新庁舎が、城の内の元の位置(現徳島市立図書館)に完成してまもなくであった。夜明け前の仮眠の一番眠い時間帯に突然ガタガタときた。いつものことで大したことはないだろうと根が不精者、布団を被って寝ていたが収まるどころか益々揺れは大きくなる。こらいかん!慌てて車庫を抜けて前の道へ避難する。しかし車にぶつかり、柱にぶつかりフラフラしてとても走れない。やっとのことで道路へ出たが立ってはおれずしゃがみこむ。車庫の屋根が隣に新築中の警察署長官舎の屋根に、ぶつかるのではないかと思うほどギシギシ揺れている。消防車も、サイドブレーキも引き車止めもしているのに、釣り鐘がカンカン鳴り出す。こんな長い時間しかも体験したこともない大きな揺れである。面積の割に柱の少ない車庫が不安、機関員は車が心配になってきた。早く車庫から出したいがこれでは動けない。何分ぐらい経ったか、祈る思いが通じたかやっと収まった。ヤレヤレ。
被害の情報もないようなので仮眠室で一眠り。布団にもぐっていると、「ゴー」という地鳴りのような音が遠くきこえる。何の音かわからないが、気に止める者もなくウトウト寝付いたころ、望楼勤務者が「津波じゃ!津波じゃ!」と騒ぎ出す。あ!あの音が津波か、初めての津波の音でみんな飛び起きる。すぐ裏の寺島川を覗くと満々と湛えた水が溢れんばかり。明けかかった朝霧の中に不気味に光っている。
やがて潮が引き出したとみるまに、ものすごい急流となって川が空になってしまう。暫くするとゴーという潮鳴りと共に、川いっぱいに盛り上がった奔流が中洲橋からこちらへ向かってくる。庁舎裏から中洲橋まで100メートル余り、その間を潮が引くともう次の満ち潮がくる。非常に短い周期は本流の新町川の影響か。今度の潮にはタンス、水屋、芋俵、ゴムホース、材木など当時としては貴重品の品々が川幅いっぱいに流れてくる。中洲港で機帆船がかちどき橋に激突大破して、積荷が流れ出したものらしい。
やがて津波に慣れてくると次の潮では、鳶口で芋や材木を拾い出す。誰かが伝馬舟を拾ってきて満潮のとき漕ぎ出し、引き潮になるまでに帰ってくるという離れ業をやる。操船に自信ありそうであったが、津波の潮はそんな生易しいものでない。あっという間に20~30m流されてしまって、櫓なんか何の役にも立たない。次の満ち潮に飲まれたらいくら狭い川でも助からん。中洲橋にはもう次の潮が盛り上がって見えるので、みんな真っ青になって大騒ぎ、岸から投げたロープに縋って命からがらやっと這い上がった。小さな川だからこんな呑気なことをやっていたが、海岸は大変、特に県南の牟岐、淺川などでは大津波で、部落が全滅するなど大被害が出たことを後で知る。
こんな災害のとき消防がこんな呑気なことやっていた。今では考えられないことだが、業務の違う消防が警察署長の指揮下にあった。火災出動以外は命令なしでは動けなかった組織の不備が災いしたのだろう。また幸か不幸か戦災の焼け跡、掘っ立て小屋が殆どの市街地では倒壊も殆どなし。津波被害も火災もなし。これでは消防の出番なしと署長が判断したのかもしれない。
危機管理課
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