家族の教えと助け合い

更新日:2016年4月1日

父の教えに間違いはなかった

住所:徳島市福島一丁目
当時住所:現住所と同じ

 この地震の揺れがすごかったと記憶しているのは、庭に植えてあったカキの木が根元から左右にユッサユッサと揺れていたからです。立っていられないほどの揺れだったと思いますが、少し収まってから這うように庭の柳の木の下へ逃げました。そりゃ恐ろしかったです。よく木が折れなかったものだと思います。家や人には被害は無かったのですが「地盤が30cmほど沈下したのではないか」と父が言っておりました。父は明治時代の地震を体験していますので、「常日頃からバケツに水を汲んでおくように」と言っていました。それで井戸水に塩が混ざったときには助かりました。揺れたらすぐに戸を開ける、これも父の教えでした。また、揺れているときにはじっとしていて揺れが収まってから様子を見ながら外に出るということも教えてくれました。父の教え通りにしたお陰で、誰もケガなく無事だったのだと思います。何かにつけて体験者がいるというのは心丈夫なものです。私も父のように子供、孫にと伝えていきたいと思っております。

祖母の教えを教訓に

住所:徳島市国府町西高輪
当時住所:現住所と同じ

 地震があったとき、父は戦争に行って家にはおらず、祖母と母、私と妹の女ばかりの四人で木造平屋瓦ぶきの家に暮らしておりました。小学校の高学年だった私は、その日、祖母と一緒に寝ておりましたが、揺れで目覚めた祖母に揺り起こされて、目覚めました。地震だと気付き、祖母と一緒に庭に避難したのですが、横揺れが凄く、立っているのがやっとという状況でした。その上、揺れる時間が、とても長く感じられ、女四人では心細く、「どうしよう。どうしよう・・」と、あわてるばかりでした。私の記憶では、5分以上揺れ続いたのではないかと思います。揺れが収まってからも、揺り戻しがあると思い、夜が明けるころまで家族全員が庭に待機しておりました。寒さに震えながらも、1時間くらい、外にいたと思います。その後、家に戻ったのですが、特に被害はありませんでした。近所でも、けが人や、家事などは全く無く不幸中の幸いでした。とにかく怖かったことと、12月ということもあってとても寒かったという印象がとても強く残っています。
 水の被害においては、ここらの地区は、土地が高いので、水はこないということを祖母から聞いたことがあります。また、地震が揺ったときには、竹やぶに避難すると、竹の根が張って地盤が強いので、地割れからも逃れられるということと、地震が起きたらすぐに戸や窓を開けて脱出口の確保をしておくということも祖母から教わりました。
 今後、このような大きな地震が起きたときには、祖母から教わったことを教訓とし、それに加えて、日頃からの防災袋等の備えと、避難場所の確保をして冷静に避難できるようにしたいと思っております。

父の的確な判断

住所:徳島市三軒屋町東
当時住所:現住所と同じ

 戦時中、空襲で戦災に遭い家が焼けましたので地震当時は木造藁ぶき屋根の小さな家に住んでおりました。朝早いこともあって寝ていましたが、ギイギイという横揺れが時間はわかりませんが暫く続いたと思います。家の中の被害は壁に隙間ができた程度で、ヒビが入ったとか壁土が落ちてくることはなかったです。
 津波は消防団の人達が大松川まで見に行って「津波じゃ~」と叫んで教えてくれました。水は大松川が溢れる寸前まで来ていたそうです。現在のバス停約2つ向こうの「ホテル・オリーブ」のところにあった砂利採取船が家の前の堤防まで流れて来て乗り上げていました。堤防の高さが今の倍以上はありましたから、津波の高さは2m以上あったように思います。この津波によって農地の一部が地盤沈下をして塩害が発生しました。冬でしたので作物ができていませんでしたから、田畑が液状化になっているのがよくわかりました。これによって10年間は米ができず、生活に関わることですので専業農家の方達は大変苦労されたと思われます。道路にも陥没、決壊が所々ありました。
 我が家では地震のときに父の「危ないから中でおらなあかん」の言葉で避難せず、上から物が落ちてきたら危ないということで、布団を頭から被って家族全員が集まっておりました。このように父が先頭にたって家族をまとめてくれたお陰で混乱というものが一切ありませんでしたし、誰もケガも無く無事でした。この体験から、情報は早くにキャッチして常日頃から家族間で災害時についての話し合いをしておくことが大事だと思いました。

焚き火によって津波を知る

住所:徳島市南仲之町4丁目
当時住所:徳島市富田橋4丁目

 ゴォ~という音と南東の方からガタガタという音がして目が覚めたらグラグラと来ました。当時木造の二階建てに八人が住んでいて、二階には両親、妹夫婦と弟が寝ていました。地震で階段の上の明かり窓が壊れてガラスが階段に落ちてしまい「下りるに下りられん」と上から皆が叫ぶものですから、私は急いで足袋をはいて「みな、靴下、足袋はいて下りて来なよ~」と言いながら階段のガラスをほうきで掃きました。その間ずーと揺れていて4~5分は揺れていたと思います。丁度つわりの時期でもありましたので、苦しかったのと恐ろしかったのとではっきり覚えています。皆が下りて来て「家の中で居たら危ないから外へ逃げよう」と言って寒い時期でしたので、みんなは着られるだけ重ね着をして外へ出ました。
 当時、義父が東署の署長をしていた関係で緊急の電話が入り、津波が来るかも知れないから避難できるのなら市内でもした方が良いと言われました。義父は「女、子供、年寄りは山に逃げろ、男は独り残って角で焚き火をしなさい。津波が来たら火が消えて何処まで水が来たか山からよく見えるから」と言い残して署へ行きました。我々は父の言うとおりに金毘羅さんまで逃げて、夫は残って焚き火をしました。逃げるときに近所の人達にも、このことを知らせ、皆で逃げました。逃げる途中で消防署の人達が「津波が来るかもしれないんで歩ける人は山へ行ってください」と歩きながら知らせていました。山から下を見ると、富田橋、紺屋町の角に明かりが見えて津波が来ていないことがわかりました。8時頃に消防署の人が「余震はあると思うけど、もう大丈夫だから下りなさい」と言ってくれたので家に帰りました。家の中はガラスが割れたり障子が外れたりはしていましたが、我が家も近所も倒れた家はありません。もちろん水の被害やケガ人、火事もありませんでした。
 教訓として地震に対する心構えが大切だと思っていますので、家族間でよく話し合うべきだと思います。私はプレハブの倉庫に非常袋を用意しています。

父の冷静な判断

住所:徳島市論田町本浦下
当時住所:徳島市万代町2丁目

 地震がおきた頃は、戦争で家を焼かれてしまい、バラックとよばれるスレートぶきの家で、両親と兄弟姉妹四人と共に暮らしておりました。地震が揺ったとき、寝ていたのですが、揺れのすごさに目が覚め、あわてて飛び起きて廊下に飛び出しました。すると、廊下脇にある風呂場の水が、「バシャ、バシャ」と波を立てて溢れていて、そこら中水浸しの状態でした。当時、家の隣が三~四階建ての「県庁」だったので、すぐに父が、「県庁に避難するぞ」と言って、お位牌や貴重品、そして着替えの服を抱えて父を先頭に家族で避難しました。あの寒い中パジャマのまま裸足で、必死で駆けて行ったことを今でもはっきり覚えております。県庁の前に行くと、門が閉まっていたので、父が、植え込みの中の大きな石で窓ガラスを割り、中に入りました。真っ暗の中、県庁の内部に詳しい父の声を頼りに屋上まで避難しました。他にも、裏門を壊して避難してきた人が数名いました。
 代々、船の会社を経営していた我が家は、父が海の気象に明るく、海を見て「津波が来るぞ」といいました。そして、眼下に見える海に向かって「津波が来るゾー」と大声で叫びました。その声を聞いて、海に出ていた数隻の船がエンジンをかけ、帆先を河口に旋回させて一斉に避難を始めました。津波は、白い波が持ち上がったように押し寄せて来ました。そして、かちどき橋では、橋脚に船の帆柱がぶつかって「ベリッ、ベリッ」という音を立てて折れ、流されていました。明るくなった頃に家に戻りましたが、もともと私の家の場所は、ここらでは、地盤が一番高い所だったので、津波の被害は受けませんでした。けれど、その裏側は、土地が低く水の傍だったので、津波の被害を受けてしまい、水が1mから1.5mほど浸かって、泳いで避難したという友達もいました。その日の夕方、母の里のおばあちゃんが、「小さい子もいて大変だろう」と、おにぎりを沢山にぎって持ってきてくれました。ご近所にも「不便しているだろう」とそのおにぎりをふるまいました。この頃は、色々と近所で助け合っていたものでした。
 水道は、地震後、丸一日断水で不便だったことを覚えております。また、電気は停電したものの、夕方には回復していて、母が、「電気がついてよかったな」と言っていたのが印象的でした。多分、皆、電気の明かりに気持ちが、少しながら「ほっ」としたのだと思います。
 今後、大きな地震がきても、父のように冷静に状況判断ができたらよいと思っております。

妻と二人で抱えあって

住所:徳島市伊月町5丁目
当時住所:徳島市明神町5丁目

 あれは明神町の古い木造二階建ての家に住んでいたときでした。大きな揺れとギチギチという音で「ありゃ~地震じゃぁ~」と飛び起きました。あまりの大きな揺れで立って居られなくて二階で妻と二人抱えあっていました。横揺れが大分長く続いたように思います。
 そのうち時間はわかりませんが外から「津波が来よるわ~」と声が聞こえて来て、何処から来られたのか知りませんが、大勢の人達が前の道を眉山に向かって逃げて行くのが見えました。私の実家は鴨島でしたので市内をよく知らないし揺れが収まったのもあって、我々は外へも出ず逃げもせずそのまま家でおりました。幸いにも我が家では地震の被害はありませんでしたので、揺れが収まってからはいつも通りの生活をしました。翌日気になったので津田へ様子を見に行き「ありゃ~ひどかったんじゃなあ~」と津波を始めて知りました。というのも、船2隻が「岩のはな」にのし上がっているし、水の被害でしょうか家の1mぐらいの高さまで壁が全部落ちていました。
 また大きな地震が来るかもしれないと言われていますが、私自身あまり考えていなかったのでこれを機会に家族で話し合ってみようと思っています。

危機管理課 

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