「私の戦中戦後五〇年」
最終更新日:2016年4月1日
徳島市かちどき橋 池上 節子
昭和十八年十二月私達市内在住の女子七〇名は男子に替わり県庁警防課に設置された防空監視隊本部に召集採用された。任務は眉山をはじめ宍喰・牟岐(軍)・日和佐(軍)・橘(軍)・鷲敷・椿泊・小松島・撫養・板西・川島・貞光・池田、後に浅川・羽ノ浦・平谷・三名・小野・山城が追加され、計一九の監視哨から送られてくる敵味方機の飛行情報(日時・高度・機種・進行方向)を大阪中部管区司令部と善通寺四国管区司令部に通報し警報の発令解除を伝達する通信業務でした。まず中部管区司令部を見学し改めて日本の国土を守る大切な役目に誇りをもち昼夜交替で勤務していた。初めのうちは味方の偵察飛行が殆どなので監視哨員の作ってくれる模型飛行機を集める楽しみもあり度々慰問に出かけていたが、二十年になると東京を始めとして日本各地が爆撃され、徳島も郡部に爆弾が投下されだした。
そして七月三日夜八時頃、警報と同時にB29の編隊が紀伊水道を北上し阪神地区に向かっているとのラジオ情報で外にとび出すと同時にすごい爆音。やがて北東の空が赤く染まるのが長い間続いた。そして夜中近く突然空襲警報のサイレンが鳴り響いた。空を見ると満天の星空なのに冷たいものが降ってきた。油脂焼夷弾の雨だった。続いて大きな音がして隣家の防空壕に爆弾が落ち中国人の頭に命中、即死で手当ても出来なかった。B29は繰返し旋回して爆撃忽ち市内は火の海となり、道路は市中から逃げてくる人の波が何時までも続く。やがて家の近くまで炎が迫って来ると旋風が起こって炎熱地獄になった。水を被りながら両親と共に家を守り夢中で耐えた四時間は恐ろしく長かった。幸い家は水田に面していた為か不発弾が四こ畑に落ちていたが無事だった。明け方漸く炎も治まり辺りを見渡すと市内一帯が焼野が原に変わり、ビルの残骸がポツンと立っていて眉山がすぐそこに見える。勤務のことが気になり煙の燻る中歩きかけたが忽ち靴のゴム底は溶けてしまい茫然と立ちつくした。当夜夜勤の人は県庁が爆撃されて通信不能となり、梯子を伝って下り、タオルを水に浸し顔を覆い炎の中をくぐって田畑に避難したが、新町川には多数の人が炎に追われ飛び込み死んだ人も多かった。翌日予て極秘のうちに用意されていた眉山山麓の洞窟に集まり通信業務を続けたが敵機の情報ばかりで不安はつのる一方だった。でも勝つと信じて疑わず只一生懸命だった。焼けた死体を横目で見ながら勤務に行く途中、ロッキードP38の機銃掃射を受け、身を避ける建物もなく地に伏せて通り過ぎるのを待ち死ぬ思いもした。
そして一カ月余りで終戦になり、隊長以下隊員一同洞窟の中で玉音放送を聞き解散式をして長い戦いの幕が下りた。後日洞窟を訪れてみたが跡形もなく整理され、樹々で覆われ偲ぶ縁もなかった。
そして終戦から一年余り経た或る日一台のジープが家の前に止まり二人のアメリカ兵が訪れた。突然のことなので暫くためらっていたが日系二世らしい人の丁寧な日本語が聞こえて不安が消えた。用件は服を体型に合わせて直してほしいと言う。私は戦時中から洋裁をしていたのですぐ要望に応じられた。その後次々と紹介されやがて後れて着いた奥さん達の服も仕立てる様になった。当時は暗い色の和服や古い背広の更正服ばかりの中で目をみはるばかりのファッションブックや美しい花柄のカラフルな生地の服作りは本当に夢の様だった。併しそれまでの貧弱な日本人の体型と全く違う外国人の体型に合わせる為にいろいろ試行錯誤を重ね乍ら型紙作りに苦労したが後々大変よい勉強になった。そしてどの人も敗戦国民に対してでなく一人の人間として丁寧に応対してくれたが仕事は厳しくビジネスとしてきっちりしていた。又焼けなかった日本の家や生活に興味があり度々訪れてフレンドリィな交流が徳島を去るまで続いた。一九八一年徳島市国際交流協会が発足し今ではいろいろな国の外国人と交流の輪が広がっているが、今思えば戦後間もなく来徳した進駐軍の家族の服作りは私にとって国際交流の始まりでした。以来何処の国の人とも真心と自然体で接すれば楽しい交流が続けられることを実感し、これからも続けてゆきたいと思う。
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