とくしまヒストリー ~第1回~
城下町徳島の誕生
天正13年(1585)、四国を平定した豊臣秀吉は阿波国を蜂須賀家政に与えた。はじめは長年功績のある正勝に与えるつもりであったが、正勝は老齢で秀吉の側近く仕えることを望みこれを辞退し、代わりに28歳の嫡子家政が拝領した。
蜂須賀家は尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)の豪族で、「小六」の名で知られる正勝が、織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581)には播磨国龍野城で5万3千石の大名となった。天正13年に家政が拝領したのは阿波国のうちで17万5600石余だったが、慶長8年(1603)には阿波国全てを領有し、さらには元和元年(1615)には淡路国7万石余を与えられ、蜂須賀家は阿波・淡路両国25万7000石の四国最大の大名となった。
家政は猪山(現在の城山)に築城を始めたが、城地の選定は天下人秀吉であった。この時、「渭津(いのつ)」の地名を「徳島」と改めた。新領主蜂須賀氏の入国にあわせ、人心の一新を図るねらいがあったのだろう。
築城と並行して城下町の建設が行われた。徳島に来て商売をする者には屋敷地を与えるという告示を阿波国内に出すとともに、堺から千利休の甥、魚屋道通(ととやどうつう)を招くなど、町人を積極的に集め、町づくりが進められた。
徳島は河口部に立地し、大小河川の乱流するデルタ地帯に設けられた城下町である。デルタ地帯の土地利用は築堤工事などが必要だが、河川を水上の幹線道路として軍事的、経済的に利用することができるのが魅力だ。桃山時代から江戸初期の城下町の多くは河口部に立地し水上交通で栄え、後には「水の都」と呼ばれる都市が誕生する。徳島もその一つだ。城下町徳島は、阿波藍を始めとする特産物に加え、水運の展開により繁栄を極め、明治27年(1894)には全国11位(「都会一覧表」)の人口を有するまでに成長したのだ。
「解体前の徳島城古写真」 徳島市立徳島城博物館蔵
[写真解説]
明治5年(1872)頃に撮影された徳島城唯一の写真。鷲の門やその右側に見える月見櫓のほか、山上には天守の屋根も見える。
参考文献
特別展図録「秀吉の町・家康の町」、徳島城博物館発行、2007年
特別展図録「描かれた城下町 -水都発見―」、徳島城博物館発行、2009年
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