とくしまヒストリー ~第13回~
「眉山」 -城下町徳島の地名1-
最高標高290mで、南西から北東にかけて約4km、幅約2kmの山域を持つ眉山は、その雄大な姿と落ち着いた佇まいから徳島市のシンボルとされている。中腹や山麓には多くの神社や寺院が集まり、眉山は信仰の場でもある。以前には小説や映画にもなったから、眉山の名前を知らない人はいないだろう。
ところが、眉山の呼称が使われ出したのは、そんなに古いことではない。今から約200年前の江戸時代後期からだ。それまでは、山全体の呼称ではなく、山麓の地名をとって富田山や佐古山、八万山等と呼ばれた。また麓には寺町が展開していたので、寺社等との関係から大滝山や勢見山、万年山と呼ばれた。
眉山の名で有名なのは、天平6年(734)3月に、淳仁天皇の兄にあたる船王(ふなのおおきみ)が難波宮行幸に供奉した時、遥かかなた阿波国の方角に見える山影を望んで詠んだとされる「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも」(『万葉集』巻六・雑歌)の歌であろう。言うまでもないが、天平の頃から眉山と呼ばれていた訳ではない。「眉のごと雲居に見ゆる」は遠い山を表現したに過ぎないと、文化12年(1815)成立の藩撰の地誌「阿波志」(徳島城博物館蔵)では明確に否定されている。
ただし、この歌をもとにして、後世、眉山の呼称が生まれたと考えることは充分可能だ。
また、京都の歌人有賀長伯が、享保9年(1724)に蜂須賀家の歌会で、「眉山の霞」と題して「立春のみどりをこめて佐保姫の粧ひふかく霞む山まゆ」と詠んだのを起源とする説もある。いずれにしても、眉山の呼称は江戸時代には学者や僧の間では用いられたが、庶民には馴染みが薄く、江戸時代後期になって、ようやく定着したと考えられる。文化8年(1811)に大坂で刊行された阿波の観光案内書「阿波名所図会」には、眉山の地名が使われており、江戸時代後期には、眉山の地名が一般的に使われ出したものと考えられる。
眉山がクローズアップされたのは近代のことだ。明治時代の中頃、白糸の滝や三重塔、祇園社を中心に大滝山公園が造成され、桜が植えられた。桜の名所となった同公園は、料亭も開業し、徳島市最大の行楽地になったという。昭和20年の空襲でそのほとんどは灰燼に帰したが、今では想像することもできない歴史が眉山には眠っているのだ。
「徳島眉山公園地全図」徳島城博物館蔵、眉山公園の計画図
参考文献
『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
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