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とくしまヒストリー ~第22回~

「万年山」 -城下町徳島の地名10-

 眉山の一角に、徳島藩主蜂須賀家の墓所「万年山」がある。万年山は、藩政改革を進めていた徳島藩10代藩主蜂須賀重喜(しげよし)(1738~1801)が、明和3年(1766)に設けた儒式墓所だ(平成14日年、国指定史跡)。
 万年山の名前は、一族の長寿を願い、万年も変わることなく長く続くことを意図したものとされる(『史跡徳島藩主蜂須賀家墓所保存整備計画書』)。
蜂須賀家の菩提寺は助任の興源寺(臨済宗)で、万年山は墓所である。同寺には、藩祖家政・初代藩主至鎮(よししげ)・2代忠英(ただてる)・3代光隆・4代綱通・5代綱矩・9代至央(よしひさ)の遺体が埋葬されている。6代宗員は火葬、7代宗英は京都清浄華院に埋葬されているため遺体はない。万年山創設以降は、万年山には遺体が、興源寺には遺髪が納められた。このように説明していくと万年山が埋め墓で興源寺が詣(まい)り墓となるが、万年山は創設者である重喜の理想を現した場所なのだ。
 万年山設立のねらいは、眉山中腹にある高さ3m近い自然石の表面を整形し刻まれた「万年山墓域碑」(写真)でうかがえる。仏式によらず儒教の礼に従い墓制を営む。自分の体は父母の遺したものであり、決して父母を軽んじてはいけないと述べる。儒教精神に基づき、人生の終わりである葬儀を疎かにせず、祖先を追慕して、その祭祀を丁寧に行うというのが重喜の主張だ。鬱蒼とした樹海だが、万年山には崇高な理念が籠められていたのだ。
 秋田新田藩主佐竹義道の4男として江戸に生まれた重喜は、17才で9代藩主至央の養子となり、阿波・淡路両国25万7千石の大名蜂須賀家を相続した。その頃、徳島藩は莫大な借財を抱え、財政は窮乏に瀕していた。家老たちは財政問題に無策であったため、重喜は改革を表明したが、重臣たちの反対により実現に至らなかった。その後、家老たちを懐柔・処分し、彼らとの抗争に勝利した重喜は、明和3年に改革に着手した。それは相続後12年が経過した、重喜29才の時であった。
 改革は多岐にわたるが、家格に拘束されない人材登用制度(「役席役高制」)の導入や倹約令発布、藍玉専売仕法の改正、放鷹地の開墾、備荒貯穀倉の設立、そして葬送礼の儒葬化、すなわち万年山墓所の創設である。血筋尊重の武家社会において養家の墓制を改めるのはタブー視された筈だが、重喜は敢えて断行したのである。万年山墓所の開設は重喜が長年暖めてきた秘策ではないかと私は考えている。万年山は重喜の改革の到達点とみなすこともできるし、儒教による国づくりや人づくりを目指したことの表明であろう。
 重喜は専制政治を手に入れたが、その期間は短く、明和6年(1769)幕府から強制隠居を命じられた(32才)。幕府によってその改革は全て否定され、藩政は8代宗鎮の時代に戻すよう厳命された。
 しかし、万年山は存続し続けた。ちなみに、儒式墓所設立の流行があるとすれば17世紀中頃だ。しかし、推進した藩主が代わると儒式は廃され仏式に復した。万年山墓所の開設は、儒式墓所ブームの約1世紀後だから珍しい。加えて藩主が交代しても儒式墓所が継続したという点でも注目される。それは、菩提寺と併用したことに加え、重喜の儒教的な理念が子孫や家臣たちに受け入れられたからであろう。
 万年山には、藩主だけでなく夭折した子女、側室・侍妾が埋葬され、その数は54人。それぞれ台地が整えられ、藩主を中心に子女や側室・侍妾の墓が取り囲む。藩主に仕え、その子をなした側室・侍妾のことは一般的に歴史の闇に埋もれがちだ。しかし、万年山では彼女たちの出身や子供、没年等のことが墓碑銘から分かるのだ。
 蜂須賀家では江戸後期には、特に功績のあった側室には蜂須賀家の家族(姫君)と同格とする制度があった。「庶姫末席」と呼ばれ、墓地の囲いも藩主の子女と変わりがないように見える。庶姫末席の嚆矢は、お時の方(1747~1820)で、重喜の寵愛が著しかった女性だ。わずか18才で側室となり、重喜の長女、於簾御方(おみすのおんかた)を生んだ。この姫君は8月に生まれ10月に亡くなっている。僅か2ヶ月で亡くなってしまった姫君の死を悼み、秋の露のように儚いという意味の「秋露」の諡号が付けられたのであろう。万年山墓所埋葬者第1号がこの姫君だ。お時の方は、その後、五摂家の一つ鷹司家に嫁いだ載(つく)姫を含む、2男2女を産んでいる。
 身近にあるが、その重要さを見過ごされているのが万年山だ。10代藩主重喜の理想や側室たちの人となり、庶姫末席等と学ぶことが実に多い。勿論、中腹からの眺めも素晴らしい。紅葉の季節、万年山の学びの登山をどうかお愉しみください。


「万年山墓域碑」高さ約3mの緑色片岩に刻まれた10代藩主蜂須賀重喜の考え

参考文献

多田茂信『万年山』、グランド印刷、1992年
『史跡徳島藩主蜂須賀家墓所保存整備計画書』、徳島市教育委員会編、2005年
根津寿夫「徳島藩蜂須賀家の「奥」ー正室・こども・奥女中ー」(徳島地方史研究会『史窓』38号、2008年)
桑原 恵「養子藩主の祖先祭祀~万年山墓所をめぐって~」(徳島地方史研究会『史窓』46号、2016年)

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