徳島における空襲での体験:湯浅 泰治
最終更新日:2016年4月1日
徳島市城東町 湯浅 泰治
今年は、徳島大空襲からちょうど六十五年目になる。私は当時眉山の頂上にあった(現在のパゴダの付近)防空監視哨に勤務していた。立哨のときには紀伊水道を北上するB29の編隊が阪神方面へ爆撃に向かうのをよく見る。七月三日夕方、五時ごろ八名でいつものごとく食料品、薪炭、飲料水等、各自背負い天神社より登る。六時前頂上に着く。休む間もなく先に勤務していた班と交代し、やや暗くなりかけた、灯火管制下の市内を見て立哨する。九時ごろ高松方面に、B29が焼夷弾を落とし、上空が真っ赤に染まっていた。
私の記憶では、十一時四十分ごろ敵機は東の方角より侵入し、徳島駅から出来島方面に最初の火の手があがる。続いて市内の周辺から何十機もによる猛爆で炎が中天を焦がし、まもなく市内が全く見えなくなる。すぐ目の前でB29の胴体が紅蓮の反射で赤く染まり、搭乗員の姿が見えていた。茂助ケ原に多くの人が避難してきた。その中に全身火傷を負い、家族が戸板に乗せた私と同年くらいの少年が泣き叫んでいて、見るも痛々しかった。やがて尾根伝いに陸軍病院(現在の中央病院)へと向かっていった。三時間くらい空襲は続いたと思う。市内一面白煙が立ち込め全く何も見えなくなった。
東の空が明るくなり下山する。途中眉山の中腹で、多数の人が直撃弾を受けて死んでいた。天神社の下はまだ燃えていて降りられず、一旦中腹まで引き返し椎宮神社まで行き、やっと地上におりた。南佐古を歩き、新町にたどり着く。付近には男女の区別もつかぬ黒焦げの死体が無数に横たわり、異臭を放っていた。新町橋も焼け落ち、橋桁だけが残り、渡る間からどす黒い川面が流れていた。(当時新町橋は下流片側だけだった。)多分、地下足袋をはいていたがアスファルトの熱気で歩きづらかった。焼け跡に立つと丸新、一楽屋、県庁等が残り、沖洲の海が見えていた。鷲の門前で婦人会の人に、にぎり飯二個をもらい、食べる。昨夜から何も食べてなく非常にうまかった思い出がある。
戦中の多くの人の犠牲により現在があり、戦争は二度と絶対に起こしてはいけない。今の平和がいつまでも続くことを願っています。
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